いまさら人間を機械みたいに教育しても意味がない理由
マクドナルドで昼ご飯を食べた。あそこでは店員は機械のように働いている。ぼくの注文を聞く間もスピーディな決断をするようプレッシャーをかけてくる。キャベツ千切りマシンのようにレジ係の女性は客をさばき、後ろではたくさんの従業員がモダン・タイムスのように動いている。
私達が使っているスマートフォンは簡単に色々できるようにデザインされている。でも、スマホ上でネットフリックスを視聴しているとすれば、スマホの中と外で、とても複雑なことが同時に起きていることになる。そんなスマホを世界の成人人口の大半持つことになるのが2020年だ。それからはたぶん、ポストスマホ時代がやってくる。もっと複雑になっていくのだ。
1人のエンジニアが、自分たちの製品のすべてを完全に理解することは難しい。なぜなら彼らがつくるものは複雑さと複雑さをなんとか重ね合わせてできているからだ。
中央集権型の巨大組織は、トップが自分たちのしていることと自分たちのもっているものすべて知っていることを前提としている。でも、実際にはそんなことは不可能だ。人間一人のパフォーマンスは限られたものだし、一日は24時間しかない。
だからもっと複雑な働きができる組織が必要だ。バイオロジックな非中央集権な組織をつくらなければいけない。全部が全部という話ではないが。
そしてこのカオティックな世界にマッチするのは暗記学習が育んだ役人ではない。マクドナルド的な教育、つまり、人を機械にする教育でもない。
20世紀はおよそ16年前終わった。チャップリンは人を機械にしていくことに違和感を感じていた。100年くらい前に。
良識と好奇心をもった、先入観リセット装置を内蔵する、自由な人間であり、他人や機械と協働する面白い人間だ。
Image via Decent film