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最近、日経のFT買収に関する英文記事にふれたとき、そこにはピアソンがFTを高値で売ったことが賞賛されているだけで、日経のにの字もなかった。
つまりそのジャーナリストの視点から日経が欠落している。それがそう書かれるくらいの環境があることを想定することはできる。
欧米には、欧米人だけの社会が広がっている。逆もまた然り。日本人だってアメリカのマイナーな州の名前を言われてもわからないし、ヨーロッパもマイナーな国については情報がないし、彼らの文化・ライフスタイルを理解していない。
日本に来た欧米人は大概、最初は「日本の壁」にかなり苦労する。その苦労を乗り越える人もいるが、それは稀なケースかもしれない。
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ぼくは5年インドネシアで過ごしたから、アジアについて話すのが好きだ。しかし、平均的な日本人の友達からは「好きだよねー、アジア」とまあ、余り評価されない。
中にはアジアと聞くだけで、サッカー日本代表がワールドカップ予選でけちょんけちょんにする相手とだけ認識している人だっている。ふう。
日本の野球リーグで頑張って、次は大リーグに行って、「ワールドシリーズ」に出場する、という「世界への挑戦」。サッカー日本代表がヨーロッパの強豪国にぼこぼこにされて、「やっぱ世界の壁は高かった」と使われる「世界」。
国連の安保理常任理事国入りを目指すというのも、欧米人がつくった枠組みのなかでいい席がほしい、というお話。国連という「世界」。でもそれって本当に世界なのかな?
それはアメリカ、ヨーロッパのつくった枠組みだろう。認識が福沢諭吉の時代から変わっていない。
確かに欧米人は秩序づくりに精通している。現代芸術というわけわからんものに文脈を生じさせ、サッカーワールドカップを軸に各国のサッカー協会に口出しする権利を手にし、TPPに参加することを迫る。
日本人はそういうのが苦手だ。でも、このままだと、人の土俵で相撲をとり続けることになるんじゃないか。
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日本列島の周りを膜が覆っていて、外の世界との間で、情報の巨大な違いが横たわっている。ブリンカーをつけた競走馬のような感じだ。状況は江戸時代と変わらない部分がある。たまに外国が気になれば、中国と韓国とのもめ事….。
海外にいるマスメディアの支局員は日本にいる日本人が好むニュースを探すし、彼らが食べやすい形に加工する。でも、それだと「日本食」しか食べないまま一生を終えることになる。
アービトラージャーはこの「格差」を思いっきりエンジョイしているかもしれない。英語が、外国語が、日本語になるときに、そこには千載一遇のチャンスがあるからだ。なにしろ、アービトラージャーは他の人が見えない暗闇に目が利くわけだから。
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でも、日本列島に住む人は地理的チャンスをもっている。無意識にそれを無視しながら。
ヒラリー・クリントンが国務長官時代に書いた2011年の論文だ。解釈を加えた要約はこうだ。「今世紀で一番経済が成長するアジアに、アメリカが最も大きな影響力を持つことで、アメリカは今世紀も最強であり続ける。そのためには中国の台頭を抑え、影響下におかなくてはいけない」
ここに近年の米国の安全保障・対外経済政策の基点があった。アジア重視。実際には彼女の夫がAPECをつくったときから、外交政策の潮流として存在した。
彼女の選対にはブレーンのジョセフ・ナイが入っており、当選のあかつきには、中東ではなく、アジアに資源を向けて、辣腕をふるうだろう。国務長官がケリーに変わってから、アメリカは中東に逆戻りしていたのに修正を加えるだろう。
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つまり日本人は、「とても近くにあるそれだけホットな場所」のことに関心がうすすぎる気がする。ヨーロッパもアメリカも遠いし、欧米社会に食い込むのは骨が折れるし、あんまりおいしい思いはさせてくれないかもしれない。
日本で始めたことをアジアに広げていくことが大事だと思う。いまでこそまだ、日本は金持ちではあるけど、一人あたりGDPでみれば、すでにシンガポール、豪州の背中をみている。10〜20年たてば、地図はがらっとかわる。いま傲慢にしていると、あとで相手にされなくなるだろう。
ただし、これはビジネスのレイヤーでのことで、個人同士では別にどこの国の人とも仲良くなれる。個人とビジネス、国家は別物だから。あと「欧米」ってひとくくりにしたけど、多様な人達だ。