デジタルエコノミー研究所

”経済紙のNetflix”を作っている起業家の日記

メディアの理系/文系問題

駒沢大学駅の書店に行った。探している本は見つからなかった。その書店にはサイエンスのコーナーがないからだ。手に入れるには、ジュンク堂ブックファーストなどの大型の書店に行かないと難しい。

メディア業界にいるが、この世界はとかく文系だらけだ。私も文系の学部を卒業している。

テクノロジーが生活に浸透し、文理分けられる時代は終わった。これから我々の生活は一気に変わっていくだろう。

この状況は文系に変化を迫っている。それが、難しい反応として出ちゃうことはある。認知の外にあることには攻撃的になってしまう、そのわかりやすい例は小保方さんの問題だ。

確かに小保方さんがしたことは、かなりヤバいことだった思われる。ただし、小保方さんは反論をしているし、彼女が責任のすべてを被せられたとも主張しているようだ。

それはさておき、なぜあそこまで残酷な非難が浴びせられたのだろうか。いくつも要因は考えられるが、そのひとつが文系/理系問題だった気がする。そういうニュースルームの様子が目に浮かぶ。

報道の現場には、定式化された情報の扱い方が存在する。業界が長いほど、そのフレームの外で情報を捌くことに頭が回らなくなる。というか、報道だけじゃなくて、まとめ系、バイラル系、ブログ系のメディアも似たようなフレームを使いまわしすぎている。

同じフレームで処理し続けるだけならば、機械学習が簡単に取って代わることができる。スポーツの結果速報を自動で記事化するマシンは存在する。

もし、自分が人間としてさまざまな問題を並列的に処理できることを示したいなら、大切なのは、目の前の事象への複眼的なまなざしであり、手に入れた知識を別のことに応用する力だ。情報とはひとつひとつ異なるものであり、ライン作業のように捌いちゃいけない。

日本でも、インターステラのような映画が撮られるようになればいいな、と思う。