デジタルエコノミー研究所

”経済紙のNetflix”を作っている起業家の日記

スタートアップの12カ月の冒険

ぼくがスタートアップを開始して一年が経とうとしている。ちょうどこのタイミングで、一度物事をまとめておこうと考えた。スタートアップを始めてからというもの、すぐに自分がしていたことの記憶を喪失してしまうことに気が付いた。スタートアップとは「探索」に似ている。長い「探索」の末に同じ場所に戻ってくることが珍しくなかった。一度思い返すことで「探索」の質を上げることができるのはないだろうか。

ディティールを書き込んだため文量は3万字までふくらんだ。これでもかなり省略はしている。メディア業界の人やスタートアップをしてみたい人を対象に書いた。気軽に読んでもらうため、テクニカルな説明はできるだけ省いたし、そうせざるを得ない場合でも、そのまま読んでいけばわかる”ふう”にまとめたはずである。

長い文章なので最初に「あらすじ」を置いておこう。あらすじと末尾の「結論」、つまり「最初と最後」を読めばだいたいを知ることができる。本文は2017年9月から時系列になっている。本文は奇想天外、摩訶不思議、抱腹絶倒、感動迅速の物語であるが、記述的であることをこころがけた。

あらすじ

2014年の秋ジャカルタで大統領選挙の取材を終えたぼくは、日本でスタートアップを開始しようと決心する。だがパートナーの離脱により頓挫。 2年後の20179月に会社を辞めビジネスメディアのスタートアップを開始した。次世代ニュースアプリを作ろうとするが、映像経験豊富なメンバーが加わり動画にシフト。

しかしベンチャーキャピタルに見せるはずの「勝負動画」が消失。ブロックチェーンに資源を全振りするが、28日後にコインチェックがハックされたことが判明し大打撃を受ける。2月末にチームを解散し一人になり、3月からは当初の計画に戻りニュースアプリをつくろうとする。

アプリ構築のためプログラミングの学習をしていたが、敵対する連中との酒盛りの結果、抗生物質に耐性のあるウイルス性肺炎にかかる。その後、食中毒にかかる。胃から大量の藻が出る。7月に病気は治ったものの体力が激減。8月末の段階で水泳ができるレベルまでは回復した。いまは「次の戦い」に備えているところだ。

12カ月の間でたくさんの失敗をした。その失敗群はおおむね低いコストでなされた。今回は不確実性への対処をあやまったが、なされた深い学習は「文化」という形で蓄積されている。ひとつずつ条件をクリアしている感覚があり、ぼくは自分のスタートアップの未来をとてもポジティブに考えている。

2017年9月

ぼくは会社を辞めた。すぐさま長い間構想を練っていたビジネスニュースアプリケーションを作り始めた。詳細は余り話せないけど、事業上の観点や自分の特性を加味すると、ビジネス分野にアプリケーションを作ることが好ましいと考えられた。

僕の関心はこんなことである。コンピューティングの進化があらゆる領域に大きな進歩の機会を与えているいま、社会の準備が余りにもできていない。20世紀の線形の時代が終わり、ぼくたちは非線形のぐにゃぐにゃした世界にいる(もともといて勘違いしていた可能性が高い)。多領域をまたがる技術の進化はハイパーコネクテッドでありもたらされる結果は予測不可能だ。機械学習プログラムが囲碁で人間に勝つという事象が、いつの間にかその応用範囲が医療や宇宙開発、核融合発電、遺伝子解析、製造業ロボット、農業等へと伝播していく、そういう時代をぼくたちは生きている。Appleが先達の教訓を活かして生み出したインターネットと電話の融合は、富裕国だけでなくDeveloping Countriesの人たちがコンピュータを使うこと、常時ネットワークに接続されていることを当たり前にした。こういう変化がこれからもっと高い頻度で広範な範囲に渡り起こるはずだ。変化の度合いをどう捉えるかは群衆の主観に依存するはずだけど、CPUの性能上昇が描く単調な曲線とは異なる曲線で、あるいは正規分布から飛び出した予測不能の点として、ぼくたちの認知がうまく反応できない形で、大きな変化がもたらされる可能性は高い。

だけど、社会や人間たちはあまりに準備ができていない。アメリカではクレイジーな大統領が暴れ、欧州では極右政党が台頭している。日本でも煽られすぎたナショナリズム反知性主義が爆発した。そんな世界がこんな圧倒的な変化をうまくとりこめるだろうか。社会と技術の間のギャップを解消しないと人類をあらゆる制約から解放する潜在性が、ポピュリズムのなかでどうしようもないガラクタになってしまう。愚かしき人類をどうすればいいだろうか?

とてつもない教育効率を誇る情報を人に与え、誤った固定観念からより純粋な知識群の世界への移行を促し、人間の社会を数段高いレベルに引き上げる道具があればどうだろう。これを作ることがぼくのライフワークだ。その小さな一歩としてビジネスニュースアップに挑戦することにした。最初の一勝が取りやすいプレイグラウンドと判断したわけである。

2010年4月~2017年8月

インドネシアでの記者業と疲弊

ぼくの経歴はLinked Inにある通りだが、平均的な日本人とは異なるので、説明したい。ときは2010年に戻る。

ぼくは大学時代は新聞社でアルバイトをしていた。新聞配達ではなく新聞社内の雑用係だった。エレクトロニカ音楽製作の夢が中途半端になり、ぶらぶらしているときであり、毎日新聞の東南アジア支局を総なめにして国際的なスクープも幾つか出した草野靖夫さんと出会った。草野さんはインドネシアで98年のスハルト政権崩壊直後に「じゃかるた新聞」を創業したうちの一人で、喫茶店(6時間)とラーメン屋(3時間)での9時間に及ぶ面接の末「インドネシアに来なさい」となった。3年生のときにアメリカ人の彼女ができて、アメリカを車で横断する旅行をした。バーニングマンを愉しみ、砂漠から出てくるとリーマン・ブラザーズが破たんした。その後一時的な経営破綻に陥るGMの本社一階の博物館も訪れた。それ以来、終身雇用、年功序列の世界観が合わないし、もともと周囲と同じ量産型サラリーマン・役人になんかなりたくもないぼくは、すぐに決断した。新卒でインドネシアジャカルタで新聞記者になった。最初の一カ月で詐欺容疑で逮捕された日本人と拘置所で面会したり、元副大統領と商社の会合に行ったり、ASEAN関連閣僚会合に紛れ込めた。さまざまなことに挑戦できる環境があり楽しかった。

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2012年バリでのAPEC首脳会合のメディアセンターにて。この後ブルネイでのASEAN首脳会合に直行の強行軍だった

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2012年東ジャワ州イスラム寄宿学校「トゥブイレン」にて。インドネシア最大の穏健現代的イスラムの総本山。

医療ミスで死にかけるというヤバいことがあったけど、留まった結果、計量・マクロ・開発・都市経済学の学習が深まり、インドネシアの政治、社会、宗教、民族等のバックグラウンドへの知見がとても拡張した。日本人、あるいは外国人界隈では競争相手がいないくらいインドネシア政治経済通になった。

ぼくが最初に起業をしようと考えたのは2014年秋から冬にかけてのことだ。その年のインドネシア大統領選挙を前年からずっと張り付いて取材していた。さまざまな予測が飛び交うなか、ぼくはとても正確に投票結果を予期することができた。正確な情報と誤った情報を区別できたし、利害関係者ではなかったのでバイアスがかからなかった。他にも外国人にはあまり気づかれていなかったユドヨノ政権後期汚職疑惑も選挙が終わるまでは待ち、現地の日本人に紹介して大反響だった。

そもそもぼくが達しているレイヤーが、現地の新聞を読んだだけで深い情報収集をしたと言いはったり、食事を一緒にして新聞に書いてある話を聞いて「確度の高い重要情報を得た」などとのたまう「高貴な人々」とは違う場所にあった。

会社では、前述の草野さんが亡くなった後は異様な社内政治が続いていた。社内では日大アメフト部コーチ陣のような軍団が結成されていて、スキをみるとたちの悪い邪魔をしてくるし、オペレーションを改善して編集部の労働時間を30パーセント程度短くできそうになると、その受益者であるはずの人たちが結託して「メディアとは」「ジャーナリズムとは」というセルフリファレンスな詭弁をたてにそれをぶっ壊した。さまざまな利害関係をもつマネジメントとは「選挙でどの候補に友好的であるべきか」をめぐって対立した。

ぼくが外で仕事をしている間、彼らは社内でiMacの前でネットサーフィンしながら権謀術数に磨きをかけている。「正しいこと」をしようとしている「中二病」のぼくはあまりにも社内政治に対して脆弱だった。

これ以上に外での政治関連の仕事は言葉にし難いほど熾烈だった。現地の新聞社が30人、テレビ局が50人かけているところを一人でやっているし「背が高くてスーツを着ていなくて異様に事情通でひょろひょろの童顔の日本人」として大ヒットしたせいで、『ファイナルファイト』のでかい中ボスみたいなやつとは常時遭遇する。皆日本人とはモノが違う権力闘争を経験しているし、むき出しの暴力装置を小脇に抱えている人もいる。ぼくには日本の大手新聞社のような「安全保障」がなく徒手空拳そのものだ。そんな厳しい状況で、きやつらに遭遇すれば細胞全部が興奮して、楽しくなり、そしてある時糸が切れたように疲弊する。そんな日々だった。

他にもいろいろあった。投票日が近づくに連れてオフィスから家への徒歩の帰り道に角刈りでマッチョの男が毎日交代制で待っていて家までべったりついてくる。腰元にぐっと豊かなふくらみがある。髪型や顔つき、所作や熟練度、こういうスタンドプレーが許されるということからを「こいつらはあそこの奴らだな」と推定できた。こうなるとおれのプライバシーなんてないも同然だ。日本の特高警察のような感じで、もともと国民を監視していた国だ。目の前に現れたのは「強い警告」を表しているだろう。選挙期間中はそんな感じのものが、ひとところからではなく身の回りでじゃんじゃか起きたのだ。

そうだ、日本で起業しよう

まさしく四面楚歌。体力、精神ともに疲弊しきっていた。

そんなときに英系の本屋にWired(米国版)がありいわゆる「バイラルメディア」の特集をしていた。インドネシアではシンガポールから空輸で来るFinancial Timesが一部5ドルした。The Economistも15ドルくらいした。英語の文書はオーラを帯びているように思われた。そこに描かれているのは、会社にいた日本の新聞社出身の人たちがいう"メディア"とは全く違うもので、どっと興奮した。最も興奮したのは彼らがFacebookTwitter等で新しい流通手法をつくっていることだった。メディア業界では流通が新規参入を阻んでいたのだが、インターネット、ワールワイドウェブの後ソーシャルがここまで民主化を起こした(今はなかなかの問題になっているけどね。いい面ももちろんある)。バイラルメディアをそのままやるわけではないが、変化がアメリカで起こっていて、日本にも遅れてトレンドが来るのではないか。こうしてはいられない。

自分はつくりたいものがあるが、それは従業員ではかなわない。ぼくは日系社会に優れた情報をもたらしかなりうまくやったが、海外にできた日本の序列社会は国内より強固で、メンバーシップを持たない若者には全然報酬をくれない。会社の中ではアメフト軍団から足を引っ張られるばかりで疲弊する。答えはひとつだった。

ぼくは会社を辞めて東南アジア→中国→台湾→香港→インドを3ヵ月かけてバックパッキングして帰国した。中国、東南アジア、インドと次の経済の勃興がある地域を先に周り、この土地に事業とともに帰ってこようと決意するとどうしようもなく高揚した。国境をいくつもまたぎながら夢について考えるのはあまりにも興奮するものだ。その様子はこの記事にかいてある。このブログ自体も旅行記として開始したのだ。

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2017年4月インド・ムンバイにて。仏教徒集落でなぜか厚遇される。ぼくは特定の信仰はもっていないがとても貴重な経験だった

旧友の嫁ストップで頓挫、DIGIDAYへ

しかし、帰国すると、起業を約束していた旧友が嫁ストップで抜けて、計画があっさり頓挫したのだ。これはすごいダメージだった。5年間日本を留守にしていたのでピンチヒッターは全然見つからない。しかし、これで終わってしまうわけにもいかない。

それで新興メディアやGoogleFacebook以降の広告、メディア業界のビジネスメディア『DIGIDAY』の日本ブランチをローンチしようとしていた会社に入社。DIGIDAYに関与することが条件だった。いくつか選択肢があったが、その会社がかつて『Wired』日本版を発行していたことと、ぼくが日本のインターネット業界の事情に疎かったことが決め手だった。ローンチを通じてウェブメディアのビジネス開発の学習ができ、デジタルマーケティングの周辺知識が急速に広がった。大学からインドネシア時代まで学んだ経済学とデジタルマーケティングの相性がかなりよく、ビジネスサイドが好まない技術上の詳細を学んでいけば、簡単に他の人々と差がついていく。

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2017年Microsoftのイベントにて。Tシャツが他社にもらったもので「空気を読まない」ことが実証されている。

DIGIDAY自体も好調ですぐさまポジションをとることができた。欲があればもっと大勝ちできたはずだが、最終的にはおとなしめの勝ちに落ち着いた。大好きだったビデオゲームの鉄拳の「Get Ready For the Next Battle(次の戦いに備えろ!)」が頭の中でエコーがかった。「成功しても一所にとどまるな」というSteve Jobsの言葉も大好きだ。

“I think if you do something and it turns out pretty good, then you should go do something else wonderful, not dwell on it for too long. Just figure out what’s next.” - Steve Jobs

そのときカイシャには二年務めていたが、転職すれば美味しいことになりそうだった。だが、新卒インドネシアのおれがそんなしょぼい判断をするわけ無いじゃん。そもそも学歴や能力を社畜になることでキャッシュに変えていく方針なら、日本の企業社会の特質をかんがみると、最初のインドネシアでスーパー大間違えだ。高校生の頃から量産型ザクにならないように注意深く生きてきたつもりである、というか超変わり者だったので、右翼教師に執拗に標的にされたり(僕を裁くためだけの「委員会」があった)、政治経済学部の暗記職人のぼんくらどもからは鼻で笑われていたりした。だから慣れっこなのだ。

図られたように出張先の福岡で決定的なことが起きて、一人で博多区の街を歩き回って、ラーメンとビールで一息ついたときに決意した。そうだ。二年も寝かせたプロジェクトを動かすときが来たのだ。2017年8月だった。

2017年9月(再び)

投資家まわり

こういう経緯があって再チャレンジが開始された。当時すでに一度の流血もののメンバーチェンジを経ていたのだが、これはプライバシーに配慮して書かない。新しいチームはぼく(ビジネス、コンテンツ製作)、自称ソフトウェアエンジニア(エンジニア)の二人だった。バランスはいい。

お得意のピッチデックとシナリオを作り幾つかのVCとAngelを訪れた。興味を示す人はいたが意見が一致しなかった。当時はプロダクトがなかった。スタートアップと言い張る中小企業経営者になる気はなかったから、もっと具体的な状況にプロジェクトを進めてからお金を集めようと考えた。製品開発に集中することにした。ぼくは会社を登記しなかった。 投資が受けられないなら会社登記はコストを生じさせるだけだ。ぼくはいつだってメンツより実利が好きなんだ。誰からバカにされようとプラクティカルなものを大事にするんだ。

ICOの検討

ICOが流行した。何らかの方法でブロックチェーントークンを発行するプロダクトデザインを模索したが、どうやってもユーザ体験を損ねることになる。プロダクトは通常の手段で製作し、事後的に決済や認証などにブロックチェーンの活用を検討することにした(使わない可能性も高い)。ICOのなかにはトークンを上場しハイプで高騰させた間に売り抜ける輩がたくさんいた。ICOはスタートアップにまつわる様々な制約を解く可能性があったが、他方モラルのない人々の行動がフロンティアを壊しつつあった。詳細を知らない人は「いい/悪い」という二分法で物事を判断する。そういう人たちに悪いイメージを植え付けるのは簡単だし、実際マスコミはそう動いた。

2017年10月

私は本格的にプログラミングを習得しようと思った。会社員時代に試みて忙しくなり投げ出したことがある。エンジニアリングが大きな穴なのは明らかだ。仮にぼくがエンジニアならMVPをどんどん作って挑戦できる。

しかし、ぼくは悪魔の囁きに耳を貸してしまった。もう一人のメンバーである自称エンジニアが「あなたがプログラミングをものにすると一年かかる」と言って、ぼくが学習をするのを止めた。エンジニアは「私があなたの代わりにアプリケーションを作る、その方が時間とリソースをうまく使える」と言った。正論だ。最初のプロダクトは自分で作りたかったが、ゲームを加速させるほうが大事だ。

ただし、そのときのぼくは物事を知らなかった。アプリケーションには実装が大変な複雑な仕様が山のようにあった。エンジニアがぼくの考えた仕様もどきをみて「これは無理だ」という顔をしていたのを今は思い出せる。

そのエンジニアは旅行に行くことになった。その間プロダクト開発は塩漬けで、コンテンツを製作したり他の事業アイデアのピッチデックを作って待っていた。彼は旅行から戻ってすぐに「私はやらない。お前が自分でやれ」と言った。ぼくは彼の性格をある程度把握しており、それを予期していたので、作るものを著しく簡略化してWordPressドリブンのニュースサイトをつくった。 とても簡単だった。ホスティングWordPressのサーバーにした。バックエンドの小さい変更はPHPコードのコピー&ペースト。インターフェースは出来合いのものをある程度いじり、他のカスタマイズはプラグインで済ませた。サイトを公開すると評判がよかった。物事がいい方向に移ろうとみえるやいなや「おれも手伝おう」とそのエンジニアは言った。しかし彼がしたのは解像度の低いJpegファイルを解像度が高いJpegファイルに取り替えたことだけだった。彼は静かに去っていった。

2017年11月

ニュースサイト「Axion」開始

ニュースサイト「Axion.zone」を開始した。最先端テックビジネスがテーマで、ビジネスパーソンにとって不足しがちなテックビジネスの情報を提供することを目標としていた。我々は日本という枠組みには全くこだわらずグローバル、特にアジアという視点を中核にすると決めた。以下の記事の見出しだけでも雰囲気はつかめるのではないか。

 

サイトの”About”にはこう記した。

あらゆるものがインターネットに接続され、機械じかけの知性を持とうとしています。このような変化の中で、ブロードキャストの方法に基づいた従来型「メディア」の存在意義は変化を求められます。新しい世界のなかで私たちにとって本当に重要な情報は何か、それがどんな形をしているかを私たちは追求します。

インターネットが行き渡った時代には、さまざまなものが分散され、それぞれが自律して思考するように成り立つ方が自然です。情報流通のネットワークもよりインタラクティブな新しいカタチを目指さなくてはいけません。情報生成は今後人間とコンピュータのフュージョンにより進展していきます。ネットと接続された頭脳がたくさんの情報の中から、有意なインテリジェンスを導くかもしれません。

他にもaxion.zoneの考え方が”About”タブから見れるので興味があれば見てもらいたい。

当時課題を感じたのは、将来的な人材の確保だ。サイトもコンテンツも全部一人で作った。誰かに手伝ってもらいたいのだが、日本のメディア業界にはテック、サイエンス、経済学などの専門性をもつ書き手、編集者はほとんどいなかった(一握りの猛者はいるにはいる)。

だけど、世界ではテック企業の時価総額が上位を独占し、新しい価値はテックジャイアントとスタートアップによってもたらされることが所与の条件だ。ギャップがあった。仮にaxion.zoneが事業を拡大していく場合、どういうハイアリングをすればいいのだろうか、と思案した。

戦略は大きくふたつだ。ひとつは人材の国際化である。国籍を広げれば人材活用の幅が広がるだろう。できれば会社もシンガポール、香港、上海などに広がりその場で採用したい。従来の日本企業のような人種の壁などもっての外なのだ。もうひとつは厳格な能力主義だ。情報を作る仕事はプロフェッショナルのものであり、ここで日本式の年功序列封建社会を行ってはいけない。私はメディア業界で働いているころからこう考えていて、隠してはいたものの体臭や言動から外に漏れ出ていたと思う。多くの"メディア業界人"にとって心休まらない考え方である。ぼくはたちの悪い業界パラサイトたちからしばしば攻撃の対象にされたと記憶する。

動画製作の進行

サイトの運営と並行して動画製作を進めていた。映像制作に深い知見をもつ人物がチームに参画した。動画は重要なトレンドのひとつだ。製作コストの高さに驚いたが、定式化できれば簡単になると見通しがついた。できる限りお金をかけないようにした。お金を注ぎ込めば最適化がされ、質が著しく向上することさえ明確であればいいのだから。

動画編集ソフトAdobe Premiere Proを使うのは初めてだったが、音楽ソフトウェアのAbleton Liveの経験があったので「MIDIや波形の代わりに映像ファイルを置けばいい」という要領の掴み方をし、また周囲の指導のおかげで素早くキャッチアップできた。結局重要なのは撮影と機材であり、いい素材をいい機材で収録できていれば編集もうまくいく。怖いのはPremiereはいじり始めると選択肢が豊富すぎるがゆえに無限の時間を吸い込むようであることだった。それはAbleton Liveに似ていた。

報道の映像作品の撮影は演出を入れず簡素に行うべきことは知っていた。ぼくは映画監督志望だった。ドキュメンタリー系映画監督を目指して映像学科のある某大学文学部を2年連続受験した。2年連続で落ちた。それで畑違いの政治経済学部に進んだ。

www.youtube.com

動画はある程度の設備投資を必要とした。ぼくはたまプラーザから人が通いやすい新宿御苑に引っ越した。四角い箱のような部屋で、クロマキーのためのグリーンバックを設置し、LEDの照明を用意。SONYのピンマイク、カメラバック等など備品を購入した。

カメラとPCはまあまあ議論があった。最近のYoutubeスターは一眼レフカメラiPhone 8かあるいはiphone Ⅹを採用している。これらのカメラで撮影された画にユーザはなれている。ぼくはこの路線を主張したが、シニアは業務用SONYの4Kの採用を主張した。編集用のPCもWindows自作PCならMacの6割程度の価格でMacを凌ぐ高いパフォーマンスが得られる。ぼくはゲームはしないがコンピュータグラフィックスが大好きなので「将来CGを作るときのために」お高いGPUを積もうと考えると夜も眠れなかった。しかもAMD Ryzenが出たばかりでIntelに比べてお求めやすいRyzen自作PCを作るのが流行していた。秋葉原ツクモで見積もりを作り準備万端。だけど、結局、シニアからは機材のスペックや用途などで納得行く説明はないものの、シニアの言うことは聞いておこうと、SONYMacbook Pro 15 inch 2台を採用した。

動画の配信はYouTubeで行うことにした。ウェブでもネイティブアプリでもYouTubeを埋め込むことができる。サードパーティの動画配信サービスを使うにしても、このタイミングではないだろうと判断した。Youtube Channel『Axion Channel』を作ってみた。

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引っ越しと機材調達にはなかなかお金がかかった。しっかり投資をしたのでプロジェクトをどんどん前に進めないといけない。ただ焦ってもだめだし、シニアともう一人の動画製作者の言うことも冷静に受け止めないといけない、とも考えた。3人揃うだけで人間は本当に政治的に行動する。プロジェクトを成功させるためのアイデアではなく2人の利己的な意思のためのアイデアが出てくる。資金調達とか幾ら儲けたとかばかりもてはやす日本のテックニュースがこの人たちの行動にも影響を与えているのではないか、と考えられた。自分で強くかじを握り目的地を目指さないといけない。

不安点も残った。このプロジェクトにまとまった自分のお金とキャリアを投じて勝負をかけているのはぼくだけだったことだ。ナシム・タレブの著書『Skin in the Game: Hidden Asymmetries in Daily Life』が思い出された。ゲームに参画し権限を持つものは「身銭を切ってリスクに身をさらせ」という意味合いだ。

勝負動画の失踪

ここでぼくは会心の一撃を食らった。結論から言うと、タレブは余りにも正しかったのだ。

ぼくとシニアは米系テックジャイアントの取材をし、その周辺状況を独自に分析したビデオを製作していた。この前にもシニアと別件で2回取材をやりここが関ヶ原の戦いと言う感じだった。渋谷の記者会見場ではPR会社に門前払いを食らいそうだったがご好意で参加できた。知りあいの記者、編集者と会ったがぼくがしていることが意味不明という風な彼らの表情が懐かしい。

取材はいい感じに決まり、編集工程に入った。ぼくはかなり考え込んで原稿を書いて構成をコントロールした。シニアはずっとぼくが「トレンドに詳しいだけの人」というふうに見ていた感じなので、構成ができたときには驚いたはずだ。

それは協力してくれているシニアの領域を侵す行為だっただろうが、私はシニアのバックグラウンドであるテレビ報道に深い違和感を持っていた。悪いものを変え新しいものを作るためには既存の手法をそのまま採用しているわけにはいかない、とぼくは確信していた。

例えば、テレビ番組が構成を二項対立のような形に簡略化することは、多数派の視聴者にとってはわかりやすくなり、製作側も作りやすくなるのは間違いがない。だが、それは複雑な現実世界を極度に歪めた情報の捏造にほかならない。報道映像の製作者は表には出てこないで映像に自分の主張を語らせるが、それは余りにもアンフェアで簡単にモラルハザードを引き起こしてしまうし、権威の圧力に弱い。大本営発表のようなテレビ報道すら存在する。政治性の高いものに関しては「"責任をとらず姿も表さない偉い誰か"がこういう考えを持っている。我々に従属する国民たちは忖度してね」という構造がしばしば見受けられる。だからぼくはテレビでは徹底的にフザケたコメディかスポーツだけを視聴したいと考えている。

ぼくはこの考えについてシニアに前々からできる限り柔らかく伝えていた。だが、いま書いてみて、これはシステムのなかで思考停止を経験した人にとって穏便に収められる主張はない、と感じる。しかもナメきっている童顔でヒョロヒョロの優男に論理立って言われるのである。「キー、ムカつく」となるのはわかる。

このときは製作の最中であり明確に伝える必要があったので、明確に伝えた。感情のもつれがあったのは確かだが、こうもしないと、というかこの数倍プログレッシブでないとスタートアップをやる意味がない。それに強烈な価値を作らなければ、プロジェクトと資本主義との折り合いも悪くなる。資本主義がぼくらに値段をつけてくれないと単なる同好会である。こういう背景があることもシニアに前々から話しているのだが、素通りしているのはわかったし、シニアにはシニアの目論見があるみたいだった。人間はそう簡単に一度作ったモデルを作り変えることができないのだろう。シニアはそのときも表面上「理解した」という感じだった。でも何かがあるんだろうが、俺は日本人だけど日本人の感情を、うまく読み取ったことはなかったし、このときも例外ではなかった。

ぼくは構わずどんどん進んで行った。コンテンツの難易度を日系メディアの1.5~2倍程度に調整しスイートスポットを模索した。ある程度希釈されたオーディエンスをテックジャイアントのグローバル競争、先端技術のビジネス応用などのコンテクストに誘う内容にすることを心がけた。作業自体はその人が自分でやると言い張った。テレビ制作の現場には編集する人が別にいるし、もっとたくさんの人が動画に携わるのはぼくは知っていた。一人でやるのは大変だが、そもそも動画のデキはそんなプロクオリティである必要はない。どうせあとから人を雇うなりすれば質の向上は達成できるので、荒削りでも"ファーストアルバム"を出すことが先決だった。この点はしっかりシニアに伝えたのだが、合気道のように受け流されてしまった。

動画は完成に近づいているという話だったが、その人が忙しくなりプロジェクトがばったり止まった。ぼく自身ニュースサイトの更新もなかなか大変で、余りにも広範な分野を一人で担当し過ぎているのでノウハウが深まらないきらいもあった。ぼくは安穏と構えていたが、時は経っていく。正直に言うと早い段階で諦めていた。こっちで編集するからファイルを送ってほしいとお願いするも、シニアは「自分で編集する」とリジェクトした。シニアは作業中のファイルを共有しなかったし、撮影に使用したSDカードの動画ファイルも消えていた。結局、行方しれず。プロジェクトは私が用意したMacbook Pro 15 inch 2017と、一人の構成員ともに泡と消えた。

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星になったMacbook Pro。3月になんとか手元に帰ってきた。人は何をするかわからない。Via Apple Newsroom

繰り返しになるが、やはり「Skin in the Game (身銭を切って参加しろ)」なのだ。ゲームの参加者でリスクをとらないことは考えられない。シニアは「リスクはとらずとも実は頂きまっせ」という態度を常に漂わせていた。ぼくはとりあえずゲームを前に進めたかった。途中までは利害が一致した。だが最後までそうだとは思えなかった。実際、肝心なところでゲームから退場した。

失われた資金調達シナリオ

この出来事は激痛だった。

ぼくはその動画とニュースサイトをMVP(ミニマルバイアブルプロダクト:最低限のプロダクト)として再度VCやエンジェルと話しに行こうと思っていた。構成するものたちすべてが荒削りだが、学生時代にブートレグを聴いていたおれには特に荒くもなんとも感じられなかった。大学生のときは音楽をコンピュータで作っていたが、お金を使って一流のサウンドエンジニアとマスタリングエンジニアを雇えば、大体のものはプロの音になるものだ。大事なのはそこに輝くものがあるかだが、ぼくは恐ろしいほどに自惚れていた。

ぼくらがやっていたことは日本ではそこそこ新しく、既存のメディア事業者やニュースサービス事業者には簡単に真似ができないことだった。挑戦者のマインドとそれを実現するスキルを同時にをもっている人材は日本ではウナギよりも希少だし、硬直化した中堅・大企業の中からそういうものは期待できない。ぼくの認識だと、プロジェクトが最悪シナリオに陥ったとしても誰かがぼくたちを買うことが想像できた(正直ロックアップされたくないが)。これなら最低保証付きの馬券と一緒だ。大当たりがでないことに苦しんでいる投資家にとっても強く張る気になる要因ではないだろうか(最近メルカリが出たので状況が変わっていることを強く願っているが)。というのがボクのヨミだった。

実際は楽観的だった。素早く事業をアジアに広げてハイエンドの経済情報サービスにしたい。日本市場はある程度の大きさと競争の緩やかさがあり魅力的である。一方でレギュレーターはレガシーを守り、挑戦者を排除してきた経緯がある。この日本イシューに成長が阻害されるリスクもある。最初から海外市場を目標に組み立てないといけない。日本語は他地域の人にとって言語バリアだから、社内言語を英語にする。サービス自体も日本語で始めるが、いずれは英語を柱にしよう。

日本でスタートアップをすることは必ずしもハンデキャップにならない。欧米と中華のテックジャイアントは完全に東南アジアとインドを制したわけじゃない。東南アジアとインドは獰猛な欧米、中華ではなく日本みたいな柔和なサードパーティを求めている。そういうポジション上の利がある。孫正義のようなポジションは一朝一夕では作れないだろう。それでも、極東の衰退から身を乗り出して、世界で最も熱い経済圏に手を伸ばしたい。日本で眠っている膨大な個人資産をうまく活用しひと勝負したいところだ。

ここまで妄想は膨らんでいたが、現実は強烈な冷水をかけてきた。『シュタインズ・ゲート』風に言えば、「ビデオとMacBook Proは”違う世界線の世界”に行って、この世界線に存在しない」。この比喩がわからない人は無視を推奨する。くだらない内容だ。

当時は気分を奮い立たせるためにこんなブログを書いた。たくさんの人に読んでもらって感謝である。

2018年1月 

ブロックチェーンにフォーカス

一つの資金調達の波が、一人の構成員とともに泡と消えた。さて、では次に打つべき手はなんだろう。

ぼくは直感的に決めた。Axion.zoneのフォーカスをブロックチェーンに向けたくなったのだ。主にビジネス上のテストをしてみたいという気持ちからだった。特定の領域に対してロイヤルティが高いユーザ群を抱えれば、その凝集に課金することができる、という仮説があった。小売の世界ではD2C(Direct to Consumers)Amazonの間隙をつくことに成功している。スマホゲームもいわばそういうビジネスである。特定の関心を示すクラスタと相思相愛になれれば、とても効率的な商売が可能になる。

ブロックチェーン、クリプトはその仮説にとても当てはまりそうだと考えられた。早い段階で売上のあるスタートアップは頼もしい。すぐさま「axion.zone」のコンテンツはブロックチェーン一色になった。

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ブロックチェーンコンテンツばかりになった「axion.zone」。トレーディング関連情報は全く扱わず「どうブロックチェーンをビジネス活用するか」という情報に絞られている。

記事の数量を増やしたときどんなユーザの反応がもたらされるか、知りたくなった。12月までの「axion.zone」は驚異的な滞在時間を誇っていた。興味のある人だけが来てじっくり時間を使う場だった。プロファイルが明確で今思い返すとまさぐる必要がなかった。

しかし、好奇心に勝てなかった。記事は数量を意識してたくさん作った。動画でもYoutubeスターのように低コストである程度の質のものをコンスタントに作る手段を確立するため、とりあえず沢山作ってみた。ビジターは増えるものの滞在時間は縮小した。増えたビジターは有益なのかどうか。ユーザにお金を払ってもらうには「一見さんお断り」でいい。記事量産は「一見さん」を吸い寄せる戦い方だ。テクニカルな分析を試みてみたが、axion.zone はまだスケールが足りないので有意な結果が得られるわけでもなく、結局は推定に頼らざるを得なかった。

Google AnalyticsでAMPを計測しそびれていたことが後の4月に判明したことを付記しておこう。Wordpressで自動的なAMP化を承認したサイトは、モバイル利用者の通信状況に応じてAMPがサーブされる。サイトが重かったのでたくさんのトラフィックがAMPに流れたはずだが、それを計測していなかった。これはなかなか手痛いミスである。もしかしたらニュースサイトの数値だけで資金調達がうまく運べた可能性もある。

桶狭間の合戦」マーケティング

桶狭間の合戦」の可能性も模索した。つまり、マーケティングの積極策をするか検討した、ということだ。十分なデータがなくとも強烈なマーケティングで何とかなるときがある。ただし、2017年後半の段階で少額予算のインターネット広告の効果がサチってきている気がした。胴元が“親の総取り”の色彩を濃くしている気がしなくもない。客をカモりに来たカジノとは喧嘩をしてはいけないのである。

そもそもプロダクトの競争力やその流通力が弱いとマーケティング予算は簡単に溶け落ちる。溶けるものに使うのはバカバカしい。バランスシート上に目に見える長期的なリターンが見込める(と信じられている)ソフトウェア開発に使うべきではある(税制の話は抜きにして)。今川義元に分がありそうだった。

パフォーマンスチューニング

ウェブサイトのパフォーマンスチューニングは目の上のたんこぶだった。「長居する常連は“決意”があるから遅いロード時間に耐えられるけど、潜在顧客はロード遅延が訪問自体を弾いているのではないか。顧客層拡大の機会を自失しているのではないか」という仮説をもったことがきっかけだ。これについて考えると、全盛期のマイク・タイソンの重いパンチを浴び続けている気分になり、昼も夜も夕方も眠れなかった。

パフォーマンス最適化についてはクソ素人ながらいろいろ模索した。だが、Wordpressだと基本的には限界がありそうだった。Wordpressをバックエンドに限定してフロントエンドはReactなどのJSフレームワークを使うみたいな戦い方もある。だったらWordpressのことは忘れてHeadless CMSを採用してモダンに仕上げる方がいいかもしれない。Wordpressの構成言語であるPHPが10年後までメインストリームにある可能性は薄いだろう。最適解はSingle Page Aplication(SPA)を採用することだけど、ぼくにはハードルが高かった。

パフォーマンスチューニングも掘り下げるとインターネットやワールドワイドウェブのローレイヤーの基礎がないと厳しい。モダンブラウザもまあなんと奥が深いことよ。ChromeなんてOSのような規模感だし、実際Chrome OSとしてOSになってしまっている。パフォーマンス最適化は"フロントエンド"という枠組に全然収まらないと考えていい。

そういう地下のダンジョンのことは放っておいて、最も即効性があったのは、Wordpress自体はそのままで「CDN(コンテンツデリバリネットワーク)」のような外的な手段でロード時間を速くすることだっただろう。予めページをCDNに置いておいて、ビジターがURLをクリックすると最も近接するCDNからページをサーブする。この方法はお金がかかるので敬遠したが、Web全体がこの方向に向かうかもしれない。Googleが主導しているWeb Packagingというやつのことだ。そのときいくら「税金」を取られるのか。

とにかく、少ないコスト(学習コストを含む)で即効性があるものを見つけられなかったので、放っておくことにした。

コインチェック・ハック

二つ目の悲運がぼくらを直撃した。ブロックチェーンに軸足を移してから一カ月も経たないうちに、暗号通貨取引所のコインチェッククラッキングされた。マスコミや金融庁警察庁を巻き込んだ騒動になって、ブロックチェーンに関する知識の裾野が日本で広がる可能性がもとの3%から0%に落ちてしまった。

2018年2月

コインチェッククラッキング以降は、暗号通貨界隈はさんさんたる有様だった。ブロックチェーン技術の社会的インパクトを考えている人は少数派で、多数派は法定通貨との交換レートに夢中であることが明確になった。マスコミの報道は、過剰なまでの学習意欲のなさと思考フレームの使い回しを露呈していた。彼らが主に当局から情報を得ているということは、当局とそのエコシステムのリテラシーも推して知るべきだろう。テレビ番組に数珠繋ぎで出演していた日銀出身の某大学教授は、ブロックチェーンとクリプトについて都市伝説レベルの与太話を振りまいていた(ぼくは生でその人の与太話を聴いたこともある)。想定されたとおりレギュレータは深い検討をすることなくさまざまな可能性を断ち切った。終わりの始まりである。

技術本を読み進めるうちにEthereumの将来性に悲観的になった。もし『ワールドコンピュータ』というものが存在するなら、それはクラウドとエッジコンピューティングのハーモニーから生まれるだろう。その時の主役は機械学習でありブロックチェーンではない。ブロックチェーンの意義はデジタルアセットの取引において善意の第三者を排除する点である。これだけで現代経済を根底から揺るがす巨大な可能性である。あまり欲張ってはいけないのだ。

ビットコインとそのレイヤーセカンドの開発こそ最も有望だと思い始めた。ぼくのようなライトファンにできるのは、レイヤーセカンドの開発をじっくり待つことだった。

後にコンピュータサイエンスの教科書を読み進めるうち、Ethereumへの悲観は深まった。Ethereumにはトークンの発行機能に価値がある。それ以外のハイプされたものたちは、ハイコストな「車輪の再発明」を促しているだけだ。Dapps(分散アプリケーション)を作るよりも、AWSGCPを活用してサクサクアプリを設計する方がどれだけ生産的だろうか。自由な発想は人をワクワクさせて素晴らしいものだ。だが、エンジニアリングには常に実装可能性とパフォーマンスが問われる。

ぼくはコネクテッド経済の一部分としてブロックチェーンに取り組むのが正しいアプローチだと考えた。第一のブロックチェーンであるビットコインは変わらず輝いている。他にも有望そうなプロジェクトがいくつかはある。レギュレータ、メディアと群衆がその周りで右往左往しているだけだ。

2月末に新宿の家から上野まで歩いて銭湯で風呂に浸かっている間にブロックチェーン一点突破の停止を決めた。

動画製作を停止

プロジェクトの再構成を進めることにした。2月の末で春の香りがする。気温の上昇は人を前向きにしてくれるところがあった。再構成の必要条件がチームの再構成だった。ニュースサイトの記事と動画の内容はぼくが富岡製糸場の工場員のようにハードワークして作っていた。その時は動画製作者とぼくで二人でモノゴトを進めていた。動画の制作では、記事をもとにぼくが解説めいたことをカメラの前で話してそれをその人が編集して公開するという超ざっくりとしたやり方をとった。とても助かったのだが、日に日にその人との意見の相違が許容できなくなってきた。

その人はスタートアップを映像制作会社に変えることを主張していた(『あなたはそうしたいんだろう。わかっているよ』とよく言っていた)。心頭を滅却しノーと念仏のように唱えたが、その人はアニマルスピリッツにとりつかれていた。ブロックチェーンへのフォーカスを止めるのと同時に、その人とは袂を分かつことにした。

この一件も“Skin in the Game”(身銭を切ってゲームに参加しろ)が思い出された。「リスクは負わないが分前は要求する」人をチームに入れるべきではない。その人が「リスクを負うので相応の分前がほしい」と話すまで待つ必要がある。スタートアップの最初期はそういうものなのだ、と身を持って知ることになった。

2018年3月 

3月の頭、動画関連メンバーが完全に抜けてぼくは1人きりになった。ぼくはプロジェクトを再編するために課題を洗い出してみることにした。

課題: 労働集約性

プロジェクトの労働集約性はゆゆしき問題だった。ぼくたちは記事と動画を量産していたが、この事業が拡大していくとマージナルコスト(事業の縮小拡大に伴い収縮するコスト)がぐんぐん収益を追いかけてくることになる。

AmazonGoはマージナルコストが生じないいかにもテック企業らしい小売業への進出方法だ」。当時ぼくはこのような記事を書いていたにもかかわらず、陥りがちな沼にハマってしまった。スタートアップは大勝ちするための枠組みだが、そのときぼくがやっているゲームは小さな勝ちしかもたらさない。第三者としてなら簡単にわかることが、プレイヤーになると必ずしも最高の選択肢を選べないのだ。

サイレンが鳴っていた。「axion.zone」をSEOサイトに仕上げようという人たちがたくさん声をかけてきた。SEOサイトの多くは、フリーランスの人々を低い報酬で富岡製糸場の工員たちのようにこき使いコピーすれすれの記事を連発して、検索をハックして検索結果の上位を占める戦い方をする。収益化は主にGoogle Adsenseアフィリエイトだ。広告ベースのインターネットエコノミーの歪みが生み出したビジネスである。このエコノミーを変えるというのが、axion.zoneの目的のひとつだったから、逆の筋から気に入られてしまった。彼らはぼくの経験やスキルではなく量産能力だけをを買っているだろう。これはかなり危ない兆候だった。

コンテンツプラットフォーム

2017年9月時点の目標に立ち返り、コンテンツプラットフォームをつくると決めた。動画は作るのはお休みだが新しい案にも組み込んで、経済メディアの本当のハイエンドを作ってやる。アジアにはずっとそれがないのだ。それをいまのインターネットのコンテクストを織り込んで超モダンにしてやる。

スモールプレイヤーがコンテンツプラットフォームとして成り立つだろうか。Youtube, Google, Facebook, Instagram, Twitterとコンテンツを流通させるサービスには明らかにネットワーク効果が認められる。しかし同時に断片化の傾向も指摘できるだろう。ゲーミングではTwitchが生まれDiscordがチャットの主流になっている。NetflixYou Tubeとの間に線を引くことに成功しディズニーと伯仲する将来が期待されている。

今回はすでにコンテンツがたくさんあるので、箱にコンテンツを詰めていこう。よだれが出そうないい箱が作りたかった。最初こそビジネス情報にフォーカスしニッチ市場を狙うが、教育、エンターテイメントにも手が伸びる可能性がある。その一歩を踏み出すためにはぼくが作っていたようなニュースウェブサイトではなく、もう少し入り組んだアプリケーションを作る必要があった。それをモバイルに作るかWebに作るか両方とも考えられたが、まずモバイルの可能性を模索した。

Android Appを作ろうとして止める

私自身はアンドロイドを使い続けていたので Android アプリを作ろうかと考えた。

Adobe XDでこすり倒されたUIキットを組み合わせてプロトタイプらしきものが出来上がった。Material Designは最高だった。あらゆる機能が削ぎ落とされたペラペラのモックアップが完成し後は開発をするだけだ。

ぼくには簡易なウェブサイトの開発経験しかなかった。モバイルエンジニアではなかった。独学でJava Kotlin に入門してみたが、最初のうちは本当に歯が立たなかった。 入門書がリファレンスしている内容さえ分からない。わからないまま読み進めていくと迷路の中に迷ったようになってしまう。『入門 コンピュータ科学 ITを支える技術と理論の基礎知識』3周読んだり、こども向けのClash CourseComputer Scienceを観たりしたりしているうちにだんだんわかってきた。

進捗がこんな遅くてはマズいと、何人かモバイルエンジニアとコンタクトをとって参加について話し合ってみたが、諸々の理由によりチームにならなかった。

そうこうしているうちにアプリ開発には再考が必要だとわかった。ビジネス上の要因だ。2017年の時点で「モバイルファースト」のトレンドが終わり機械学習AR/VRなど次の模索が始まっている(モバイルが死ぬわけでは決してない)

資金が豊富ではないスタートアップがモバイルアプリを最初に作るのは危険だと考えられた。ユーザーにアプリのインストールをしてもらうには多量のマーケティング費用が必要だ。だが、費用を回収する収益をすぐさま作れるかというと基本的には難しい。アプリの開発はスタートアップの最初の一手としては賭け金が高すぎる。コンシューマアプリの最後の船に乗ったのが、アメリカならSnapchatだし、日本ならメルカリだったかもしれない。

もうモバイルはバラ色の新天地ではない。iOS/Androidと二つのプラットフォームによる開発費の高騰、ストアとの折衝、AppleGoogleが課す「税金」、マーケティング費用などコストは高い。驚くほどの数のアプリがインストールされないまま去っていく。一瞬スタートアップ界隈で使われてすぐさま消えるアプリはたくさんあるけど、それ「地産地消」でありユーザに届いてすらいない。近年の大ヒットであるUberAirbnbが顧客に提供する価値はアプリの中だけに閉じていないことは大きなヒントだ。ユーザーに現実世界まで広がる価値の連環をモバイルアプリだけでコントロールできている気にさせてくれる。裏を返すと、サービス提供者が面倒を見なければいけないバリューチェーンは現実世界に広がっている。

アプリビジネスは飽和しきっておりどこかで転換点を迎えるはずだ。スマートフォンの先進国での販売は頭打ちで、AppleiPhoneの単価をあげようと必死だ。新規市場は新興国で最近はインドに頼る感じだ。近年のコンシューマインターネットプロダクトは、この新興市場に対応する柔軟性や知恵を競い合う側面があった。

こういう背景もあり、業界と利用者の双方が次のデバイスを求めているだろう。小型組み込み型コンピュータの性能改善やネットワークの進化、クラウドとエッジ双方での機械学習の活用などがうまく混じり合えば、未来はすぐさま明るくなってくる。テックジャイアントとしてはこれまでと同じ成長を続けるには新しい市場を創出しないといけないし、アニマルスピリッツに駆られたスタートアップにも機会があるので、とても興味深い。このテーマはすごく長くなるのでいつか別のポストで掘り下げてみたい。

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Magic LeapのARヘッドセット。NVIDIAドリブンのアーキテクチャ。ARもまだまだ進歩の余地がある段階だ。Via Magic Leap

とにかく事を性急に進めてAndroidエンジニアをチームに引き入れていなくてよかったかもしれない。その人がニンジャのように機敏でない限り、JavaでWebのサーバーサイドを作るような時代でもないので、大変なことになっていたはずだ。

Progressive Web App

モバイルアプリをやらないとなるとWebである。Webはモバイル環境だとアプリに劣ると考えられてきた。マーク・ザッカーバーグがフォーカスをWebからモバイルアプリに移し、近年ではFacebookトラフィックもビジネスもモバイルアプリに収束したのがトレンドを示す典型的な事例である。だけど、Webはいつの間にかぐんぐん成長し、モバイルでAppができることを大体のところできるようになったのだ。Progressive Web App(PWA)」様々な技術スタックをひとまとめにしてマーケティングされているきらいがあるが、詳しくはググってほしい。それこそGoogleのページに載っている。

つまり、Webがネイティブに負けていると思われてきた部分の大半が解消されている。そしてWebなのでリファラルも期待できロングテールとして存在できる。モバイルアプリはロングテールの存在すら許されない競争環境だ。二つのプラットフォームに分断されているわけではないので、コードは一度書けばいい。

そもそもHTML5でゲームがサクサク動いているので、メディアサイトは全然Webでいい。じゃあPWA一択じゃないか。PWAの要件をすっと満たすには、「Single Page Application(SPA)」を作れればいいとぼくは判断した。リサーチの結果、Firebase等のバックエンドアズアサービスを活用し、バックエンドはNode.js、フロントエンドをReactで作る。APIのレイヤーを設けてマイクロサービスアーキテクチャを採用し、RailsPHPのライブラリを採用しない。こういうモダンなWebアプリケーションを作ることを想定していた。

PWAはインドのような開発国を想定している(Flipkartの採用例)。Webの変化はアジア諸国を中心に起こっている。彼らは富裕国で一般的なモバイルの利用方法をとっていない。富裕国のようなアプリエコノミーとは異なる経済が生まれると推測される。面白そうなことは日本から見て西の方で起こっている。この技術開発の方向性は「Go West, Go Asia」なaxion.zoneと一致して素晴らしい。

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PintarestのPWA via Pintarest

将来的にネイティブアプリ制作の必要性が生じたらReact Nativeクロスプラットフォーム開発をしようと考えていた。ここらへんはとてもFacebookに影響されている。しかし、最近AirbnbReact Nativeの活用サンセットすると公にした。React Nativeはコストを減らす手段と考えていたが、実際には他のコストが付帯することが、Airbnbのテックブログに詳述されていた。なかなかお腹が痛くなる内容で、React Nativeには再度検討が必要になるだろう。

プログラミング学習

プログラミング学習にはいろいろと難関があった(いまもハマっている)。Reactの学習はUdemyのコースで行った。最初のうちはいい雰囲気を漂わせたがReduxが厳しいボディブローになった。JSの基礎知識がないのでまずモダンJSを学ばんとあかん。それでモダンJSはぼくが10年前に知っていたJSとは似ても似つかない姿に様変わりしていた。大学生時代にバンドのWebsiteをジオシティで作ったときのJSとは全くモノが異なるのだ。JSのオライリー本を何度も繰り返し読みながらUdemyのコースを聴いてみた。他にもいろいろやってみたが腑に落ちてこない。JSを理解するにはもっと低いレイヤーの知識が必要ではないかという気がした。

そう、ぼくはとても頭でっかちなのだ。理解できないとどうもムカついてしまい手が止まる。「なぜ、なぜ、なぜ?」といつも考える。この「なぜ」が満たされると躍動し始めるのだ。以前はレコーディングソフトウェアを取扱説明書を一行も読まずに使ったり、その場のノリですべてを越えてきたりしたインドネシア時代とは変わって自分は保守的になったのか、と悩んだが、たぶん取り組む対象(ソフトウェアエンジニアリング)がそういうものだから、脳みそがそう反応しているだけなのだろうと考えるに至った。

資金調達を再度検討

例によって新宿から上野へと歩く間にいろいろ考えた。この時期はかなり考えることに時間を咲いていたと覚えている。

プロジェクトは液体燃料を欲しがるロケットのようだった。狙っている市場は変わらないまま、低いコストで失敗を繰り返し知見を溜めている。全然ぼくは死んでいないし、諦める気もない。ここまで読んでくれた人にはぼくがトラッディショナルジャパニーズカンパニーでサラリーマンになっているのは想像できないだろう。ぼくには特に戻る場所などないのだ。大卒でインドネシアに行った時点で持っているもの全部破棄したのだ。

ぼくの作戦はWebアプリケーションを自分で作って、それをもとにエンジニア主体のチームを作る作戦だった。「吉田が書いたコードは熟練のエンジニアに完全に書き直された」と将来、記述されることを目標としていた。だがそれだけでは手ぬるい。ここにチームビルディングをし資金調達をすることを足して二本足にすることにした。

「人間を自由にし、人間の幸福追求を最大化する」

プロジェクトのビジョンなどを明確にしたほうがいいと思うようになった。「人間を自由にし、人間の幸福追求を最大化する」決めた。ぼくは、これまで自由は他の大事なものとトレードオフにしないと手に入らないものだったが、そのままのものを人々に提供したい、と考えていた。インドネシアにいた5年間、自由とはそう簡単に手に入らないものだと痛感した。低所得者層に生まれれば奇跡が起きない限り高等教育の機会がない。自分の人生を選択することもままならないだろう。それでも制約を受け入れてたくましく生きる人たちはなぜか、ぼくよりも全然幸せそうにしていた。

5年ぶりに日本に帰ると、自分には日本人的常識がなじまなかった。満員電車やオフィス街で組織や権威に支配されて自由を失った日本人の群れを客観的に見ることができた。この哀感がものすごく、「なぜ不幸になろうとしているのだろう」。SF小説に出てくる、超知能に完全に支配されている人間のようだった。秩序のために個人の自由を引き換えにするというのは20世紀の考え方だ。日本はずっと20世紀のままだ。国家の支配が厳しく、思考することを禁止する教育を受けた人々は、自分たちに押し付けられた苦役に疑問を持つことがないみたいだ。

しかし、ぼくたちは技術が人間を制約から解放する時代を生きている。21世紀の人間はさまざまな制約から解放されなければいけない。テクノロジーがあるのに活用ができないのは余りにもツラい。技術と社会にあいたギャップを克服するもの全般をつくり、人間を制約から解放し幸福追求を助ける。これがぼくが作る会社の普遍的な価値観である。

2018年5〜6月

健康がメルトダウン

こんな感じで意気揚々としていたときに悪夢に見舞われた。かいつまむと、たちの悪いウイルス性肺炎にかかり2ヵ月間を無駄にした。直りかけの段階では食中毒にかかり胃から大量の藻が出てきた。その藻があまりにも非現実的なので自分がシミュレーションの中にいるのか疑ってしまった。それほどぼくは精神的に追い詰められた状態だった。この2カ月間はあまりに色々あったので省略する。英語だが詳細なブログを書いたのでこちらを参照してほしい。 

付記をする。厨二病の発露なので読み飛ばして頂いて構わない。

これらの災厄は不運と自分の不摂生によるところが大きい。しかし、ぼくの頭では時空を歪ませて「誰かに毒をもられた」と解釈することにした。キル・ビル』では主人公が夫を殺されるシーンから始まる。主人公はカタナで武装して、超人的な力を駆使して復讐をする。かっこいい。「axion.zone」は、プロジェクトが盛り上がったところで、毒を盛られウイルス性肺炎と食中毒に連続してかかったぼくが復讐をする物語ということにしてみてはどうか。窮地に追い込まれた人間が復活し、大事を成し遂げる。ぼくの人生には何度もそういう波があったので、こう誤認した方が燃える。

キル・ビル』の中ので服部半蔵(千葉真一)はこう言っている。

復讐とは一本の直線では決してない。林だ。林のようにあなたは簡単に迷い、彷徨い、どこから来たかを忘れてしまう

この的確な忠告をもとに「復讐」を実行しよう。

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2018年7月

激減した体力と体重

2カ月間の体調不良から復帰すると、思った以上に体力を削られていたことに気がついた。体重は7キロ減、適正体重より17キロ程度足りない。筋肉はこそげ落ちていて長時間立っていられない。体脂肪率もほぼ寝たきりだったのに8.9%まで落ちた。スーパー銭湯の全身鏡の前でガイコツのようになった自分を見て愕然とした。それでも、5年前にインドネシアで死にかけた時に比べれば全然マシだった。

気合を入れないと食事がままならないので絶えずコーラやゼリー飲料を飲んでカロリーを補充した。食事は最初の一週間はとろろそばに納豆を2袋入れたものをずっと食べた。足りないタンパク質をプロテインで足した。

運動を少しずつ増やしながら食事量を増やしていくことにした。途中からはマクドナルドを重宝した。海外のマクドナルドと異なり、日本のマクドナルドは高タンパクの食事をリーズナブルに提供してくれる。素晴らしい調味料のおかげで弱っていても完食できる。私は体脂肪率を上げないといけないので油なども気にならない。

ポッドキャスト

全然体力がなく、一日に一度は体力切れで横たわることになった。その間はポッドキャストを聴いていた。ポッドキャストはとても楽しい学習手法として重宝した。

『Rebuild』はHak Matsudaさんの回がチップ業界やハードウェアのレビュー、テクニカルなたとえ話が楽しみ。映画、アニメ、ゲームの紹介も重宝した。Hiroshimaさんの回は在米日系人の視点からのアメリカ政治社会談義という観点で楽しんでいる。他にもアーカイブを辿っていくとテック業界のトピックとコンテクストがわかってくるし、MatsさんやMoritaさんなどの登場回は本当に学ぶところが多かった。このポッドキャストを通じてSF、マンガ、アニメ、映画、ゲーム、音楽、文学と自分の好きなものを思い出せたのが何よりも大きい。大学生以降、フォーカスするためにこういうものを排除してきたが、大事なものを忘れていたんだなと感慨深かった。

『Turing Complete FM』は毎回ほぼ理解できてないが「なんかすごいことを話し合っている」とモチベーションを奮い立たせるために聴いていた。フロントエンドをやっていても全く見えないローレベルの世界で、その手触りを得られるだけでもとても貴重なポッドキャストだ。

他にも『Misreading Chat』,『Accidental Tech Podcast』, 『Microsoft Research Podcast』, 『Google Cloud Platform Podcast』, 『Web Platform Podcast』などを聴いていた。

2018年8月

ものごとが動かなくなってしまうことは精神的に堪えた。体力とモチベーションには強い相関があることがわかった。Webアプリケーションを設計し直してつくればいいのだが、2カ月間の活動停止は津波のような感じで、すべてが無に帰した気がした。ここから這い上がるためにはどうすればいいか。いまぼくは以下のような小細工をしている。

ファインマンの生産性戦略

ぼくはリチャード・ファインマンの生産性の戦略を参考にしようと思った。

i) Stop trying to know-it-all.

すべてを知ろうとするな。

ii) Don't worry about what others are thinking.

他の人が何を考えているか心配してはいけない。

iii) Don't think about what you want to be, but what you want to do.

何になりたいか考えるのではなく何がしたいのかを考えろ。

iv) Have a sense of humor and talk honestly.

ユーモアをもって率直に話せ。

コンピュータサイエンス

コンピュータサイエンスの基礎的な知識やプログラミング言語全般の知識を基本として身につけることを目指した。アラン・ケイの有名な言葉に「People who are really serious about software should make their own hardware.(ソフトウェアに対して本当に真剣な人は、独自のハードウェアを作るべきだ)」があるので、ハードウェアから学ぼうと考えた。本当はこれは後付でもともとキカイに興味があってこの際、そこまで潜ってみようという安易な考えもある。

理論の壁は高かった。『ヘネパタ』と『パタヘネ』、アンドリュー・タネンバウム『コンピュータサイエンス』などを読んだが、まあ難解であり情報が入ったレベルに過ぎない。少し違う角度からせめて見る必要がありそうだ。最近注目しているのは、ゲーミング系ユーチューバーのCPU解説とインプレスPC Watchの執筆陣だ。どこからか突破口ができると信じている。コンピュータサイエンスは本当にレイヤーが深く、われわれが普段触っているものから基礎の基礎までの距離が遠い。ファインマンの言うとおり「すべてを知ろうとしてはいけない」。いくら時間があっても足りないだろう。

水泳

体力の回復曲線がかなりゆるかった。最初はランニングを試みたのだが、少し走ると体幹が筋肉痛を発して、腰を90度にしないと動けなくなるので、限界を超えてからもだましだまし歩くことを繰り返していた。ジムでも少しバイクをこぐともう身体がピシピシ言うという有様だった。

8月の第2週から積極的な食欲を感じることができて興奮した。第4週には水泳を開始した。2日連続で泳ぐと4日筋肉痛になりうち2日は腰と背中、腹筋が石のようになり立ち上がれなかった。ただ身体の回復は感じる。食事も漬物主体からタンパク質の摂取量を倍増させることにして、食欲不足でスモークタン以外の肉が食えなかったのが、鶏の胸肉が食べれて感動している。アニマルスピリッツが復活しつつあるのを感じる。

自分のやりたいことをやろう

体力が抜け落ちたおかげで、これまでと異なる視野から振り返りをすることができた。あまりに頑張りすぎていたのではないか。自分の好きなことをやろうではないか。楽しみながらやろうじゃないか。カイシャ作って売って儲かりましただけじゃ、楽しくないよ。もっとすごい、楽しいことをやりたいというところからスタートしてて、それを些末な状況によって曲げちゃうとつまんない。楽しくないとマラソンは走り続けられないよな。

 

結論

これまでがぼくの一年間の軌跡である。この一年間の経験で得られたことを五つ挙げたい。

1.低いコストで失敗を繰り返している

失敗続きのようだけど、失敗のコストは低く抑えているので、これからもどんどん失敗できる。難しい状況でも短期的なその場しのぎではなく長期的目標を見据える。ロスを最小化できていれば短期策に溺れることがない

2.実際にプレイするとミスる

理屈として分かりきったことでもプレイヤーになると過ちを犯してしまう。処理する情報量が増えたり、様々なものが動的で不確実なことに影響される。しっかり考えられてない、部分的な情報しか持たない助言者の言うことはまあまあ無視していい。

3. 突発的な事象への”Antifragile”

二カ月間を病気で棒に振ってしまった。正規分布の外側で、悪い事が起きたときには損失を最小化する措置をとり、良い事が起きたときには貪欲にそのリターンを追求していく。

4.エンジニアリングの欠損

もともとわかってはいたものの、エンジニアリング能力が欠けていたらテックスタートアップはやれないよね、と再度実感した。エンジニアリングを理解し評価できるようにならない限り、この欠損を満たすことはない。ポール・グレアム『The 18 Mistakes That Kill Startups』で致命的な失敗として「悪いエンジニアを雇うこと」を指摘している。90年代には電子商取引のプレイヤーが多数出現したが、大半は(ノンプログラマーの)ビジネスサイドが経営し自分たちのプランを実行させようとした。ビジネスサイドの経営者はいいプログラマーと信じて悪いプログラマーを雇用し、彼らのアイデアを実現する人たちを見誤っていた。スタートアップにもかかわらず大企業と全く同じ状況に陥ってしまったという。だから焦り過ぎてもいけない。

以下余談。「5.国際化」まで読み飛ばしてもいいかもしれない。

ただし、Amazonが生き残ったのはジェフ・ベゾスコンピュータサイエンスプリンストンで学んでいたからかというと、そうとも言えない。評伝を読む限りAmazonの最初期は無茶苦茶であり、ベゾスのウォールストリートでの経歴とネットバブルを背景にかき集められた資金がAmazonを現代まで存続させることに最もうまく働いたはずだ。このコンクリ床の倉庫でひざまづいて作業していて、ベゾスが「ニーパッドが必要だ」と訴えたら、「従業員がいや、パッキングテーブルが必要だ」と答える話は本当に気に入っている。

エンジニアリングがボトルネックになって事業がスタックしているスタートアップは日本に多いと推測している。上場が噂されたり、スモールIPOをしたりするレベルですらそういう"傾向"があると伝え聞く。悪いものを作ってしまうと後々全部、捨て去らないといけない。ただ、時間が経てば経つほどサンクコストが増えていくので、容易に捨てられなくなる。いわゆる「コンコルドの誤り」にハマるのだ。日本の銀行のレガシーシステムはこの典型であり、古いものの倒壊を防ぐために上から覆いをかけまくることを繰り返していて、『悪魔城ドラキュラ』のごとしである。恐ろしいことに銀行はこのコストを一般市民に転化しているのだが、マスコミは少しも突っ込まない。クローニーキャピタリズムとは本当に恐ろしいものである。

良いエンジニアを集めるためには最低限の知識が必要だ。私もコンピュータサイエンスの学習をしている。プログラムをがんがん書いていきたい。それがスタートアップの将来をとてもハッピーにするだろう。

ここで焦ってはいけないのだ。将来的にお互いの不利益を約束されたエンジニアと組むと、お互いの不利益が実現する。プロジェクトがスタックする。日本の労働市場は「しがみつくように」インセンティバイズされているので、最悪シナリオとしてチーム全員が成長しないプロジェクトにしがみついて冬眠することになる。レイオフはできないし、すぐにその人たちを吸収する労働市場もまだそこまで力強くない。再チャレンジしづらい。

日本企業はスキルに対してもっとカネを払うようにしないと、やる気が出るはずのない従業員によって地盤沈下するし、年功序列を廃して人材の流動性を高めないと、ブラック労働と給与の切り下げで利益を確保する「ゾンビ株式会社」のスパイラルから抜けられないよ。一方で企業にレイオフの権利を渡すべきで、そうしないとブラック労働を強要することが企業側の最高の戦略になり続けちゃう。もっと話したいことがあるが、ここは経済学者に任せよう。

ここで半年停滞するのと、あとで2年から数年停滞するのと、どちらがいいか。多くの場合、プレイヤーはじりじりして半年停滞するのをスキップしてあとでドツボにハマる。行動経済学的な状況で興味深い。友人には「ぬるま湯につかっている」と言われてじりじりするが、焦ったら簡単に死ぬ。甲子園で燃え尽きないように二回戦あたりでわざと、仲間たちを見殺しにして炎上を選べるピッチャーがいるだろうか。そのピッチャーはプロで成功したとき、故障で長期離脱する可能性を減らせているのだ。

正直とてもじりじりするが、焦って悪手を打つと、通信機を工作されて死んでしまった後にシャア・アズナブル「坊やだからさ」と言われてしまう。いいチームの組織が求められる。

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――――余談終わり

5.国際化

少子高齢化で高齢者に金融資産が集中し、政府が伝統的な産業を規制や時には直接的な支援で守っている日本市場では、チャレンジングなアイデアが生き残るのに北米、中国より厳しい条件が課せられている。だから日本のスタートアップは最初から海外市場を視野に入れて組み立てられるべきであり、そのために社内言語は最初から英語で、人種多様なチームを作ることが好ましいとぼくは信じている。

これからどうする?

2018年4月の段階でセーブしたところから「コンティニュー」をしよう。失敗のコストを低くしたまま「人間を自由にし、人間の幸福追求を最大化する」ためのスタートアップを形にする。病気とリカバリーの4カ月は無駄ではなく、そこで自分が得た教訓をもとに、プロジェクトをより洗練された姿にしようと思う。プールでコンスタントに1000メートル泳げるところまで回復したら、寸断されたプロダクト開発とチームビルディングを再開しよう。

このプロジェクトは2014年秋に決意してから一度も曲げていない自分の意志であり、絶対やめる気がないのだ。

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2014年5月中部ジャワ、ソロにて。ジョコ・ウィドド元大統領がかつて営んでいた木材家具業のひとたちとレストラン入口で撮影。投票が7月だったが現大統領の当選を見越して取材していた。この年の秋に帰国とスタートアップを決意する

ということで、「Get Ready For the Next Battle」!!

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