コンピューティングは分散協調型のアーキテクチャに向かっていると思う。クラウドという集中型の仕組みが、デバイスやその近辺のAIにより分散化していくことになる。テクノロジー大手が人工知能のスタートアップと研究者を買い漁るのはこのためだ。
インターネットはクライアント・サーバーという主従が決まっている仕組みで始まったが、いまやデバイスとデバイスが会話するというビジョンを目指している。Googleのスンダー・ピチャイが語るのは「デバイスの消失」だ。つまり、われわれがデバイスをがちゃがちゃいじるのではなく、AIがアシスタントとしてわれわれに便宜を図るようになるということだろう。
この分散協調型コンピューティングは個人の力を拡張するという結果も生むだろう。AIとブロックチェーンというトレンドは大きくそれを物語っている。アーキテクチャとアプリケーションの大変化はわれわれの生活も一気に変えるはずだ。われわれの生活のほとんどが「接続」されているし、接続はより深く濃くなっていく。自分に何ができるか、考えておきたい。
http://interactioninstitute.org/connectivity-creates-value/
私がインドネシアの政治経済記者からデジタルマーケティングのアナリストに転向したのは、政府のような枠組みは社会の進歩の最初の一歩に過ぎないとわかったからだ。新興国を成長させるのに政府は重要だが、それにしても非効率的でパフォーマンスが低すぎる……。システムとして評価するとかなり難しい。コンピューターサイエンスはたぶんもっと自由だし、「生産的」なことができるはずだ、と思った。
前近代的な経済を成長させるには「法の支配」が重要だ。必ずしも民主主義である必要もなく、たぶん国民国家である必要もなく、法がある一定程度機能し、資本主義が成立するレベルに達すればいい。インドネシアのような新興国には「いい政府」が必要であり、私は外国人としてそれができることを応援していたし、いまもしている。
多くの地域で政府が「刀狩り」のようなことをする時期がある。暴力に関しては今のところ、集中は分散に勝る。高度経済成長期のように政府の公共投資と民間の成長が好循環を生む期間はある(ケインジアンにとって誇らしい時代だったろう)。
ただし、経済が成熟した後、われわれは政府に頭を悩ますことになる。新しい時代に対応できない、権威を帯びた巨像を抱えることになるからだ。
政府がなくなればいいと決していっていない。おそらくこの二つをやるものとしてコンパクトになればいい。
- 暴力の集中(独占)
- ユニバーサル・ベーシック・インカム
これらも分散型で動かされるべきだ。なぜなら、利権は社会に対して最大の利益を生み出すことがとても苦手だからだ。
いまの国家や政府のあり方もほんの少し前にちょいちょいとつくった。国家はシステムにすぎないのだから、柔軟な発想でつくるべきだ。設計思想の一部に重大な難点を抱えていることを認めよう。例えば、ナショナリズム、各セクションの自己目的化、政府自体の利益集団化、コスト・パフォーマンスの低さなどがある。それ自身が欲望を持たないシステムが好ましい。となるとマシーンと人間のサイボーグになるだろう。
多くの利益集団を潤している長ったらしい法律をコンパクトにし、基礎的な法律と人間が直接コンタクトできるようにしたい。スマホでカジュアルゲームをやるように法律との整合性を個人が確認できれば、政府のさまざまなセクションと中間者に上前をはねられないので、サービスがスマートになる。
政府を効率化しコンパクトになった部分も価値を凝縮する。暴力と資源再分配を運営するコンパクトな政府を含む分散協調型アーキテクチャのなかで、われわれ個人はもっと楽しく暮らすことになればいい。大事なのは政府そのものではなく、政府がもたらすと期待されるパフォーマンスの方なのだ。